誰が操っていて誰が操られているのか―下北沢国際人形劇祭『REUNION』感想

下北沢国際人形祭、最後の感想は、チェコの劇団MEHEDAHAが上演する『REUNION』です。

公式HPから紹介を引用します。

1980年代末から1990年代の激動のプラハで活躍し、いまも伝説的な実験劇団として知られる「MEHEDAHA」が、30年ぶりに下北沢国際人形劇祭のために再結成! ペトル・ニクルやフランティシェク・ペトラーク等チェコ現代アート界の巨匠たちが一堂に会し、誰も見たことのない人形劇を作り出す。本作『Reunion』は、昨年末に閉鎖したプラハの伝説的実験劇場「Divadlo Archa」(https://divadloarcha.cz/cz/ )のクロージング作品としてプレミア上演されました。下北沢国際人形劇祭での上演が日本初演です。

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公式HPの動画をみると、演目の様子が少しイメージできると思うので、良かったらぜひみてください。

 とても不思議な世界へ連れていかれる60分で、個人的には大好きな人形劇でした。デイリージャーナルの感想を書く時、この公演のどこが好きか書こうと頑張ったのですが、好き勝手書いた結果、文章の構成と順番に悩みました。

そのため、ジャーナルに投稿したもの(提出版)と、最初に思いつきで書いた文章(初稿)の構成がだいぶ異なっています。

今回は思いつきを尊重して、最初の文章のまま投稿します。

 

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誰が操っていて誰が操られているのか

―『REUNION』感想(DAY7)

東風ゆば

 

 MEHEDAHA、彼らは何でも『REUNION』の共演者にしてしまう。それは、彼ら自身が24日の朝食トークで「心休まる共演者」と話していた自動機械だけではない(自動でクルクル四方に回るろうそくや、雪原を走行し様々な方向へ足跡をつけ続ける車や蜘蛛は、人形劇の共演者としてはレアだろうが)。

 

 彼らは、重力やぎこちなさすらも共演者とするのだ。本作では、様々な人形が舞台の上から下へ「落ちる」。最初に登場した、ウマなのかトリなのかよくわからない銀色の自動機械は、坂から落ちる。ピンク色の羽と鋭いくちばしを持つふわふわ生物は、浮遊していたはずが舞台へ落ちる。人形たちが落ちるたびに、また自動機械が舞台のはしで引っかかったり走り回りすぎて衝突したりするたびに、演者たちは長い長い棒を突き出して、人形たちを回収しようと動き出す。が、捕まえたと思った人形たちは、また落ちる。彼らは慌ててまた棒を突き出す。それが面白くて面白くて、見ている私たち観客はふと笑ってしまう。舞台の後ろからは時々、ドシンガタンと何かが落ちる音が聞こえてきて、大丈夫なのかと気になってしまう。

 

 この動きのぎこちなさは偶然なのか、故意なのか。どっちだろうがくすっと笑えることに変わりない。本作では、今までに見たことがない生き物や、人間の顔からしっぽが生え、頭にはランプや皿を乗せた謎の精たちが舞台を動き回る。一見すると人間としてあるはずのものがなく、ないはずのものがあり、カタカタ小刻みに揺れる様はとても不気味に見えるのに、落ちたりぎこちなく動いたりするのを観ると、何だかすごく親しみのある存在に見える。 

 

 音も重要だ。ランプの精たちがお互いにぶつかるたび、コーンと低いゆるやかな音が鳴る。マリオネットたちは、カリンバや木琴のような楽器で高い綺麗な音を奏でる。それを聞いていると、何となく安心する。とはいえ、思いがけない新しい形の人形が登場すると、急にそれまでの人形たちの演奏が不協和音になっていくこともある。不気味と安心が分けられないまま届けられる。謎だ。この安心と不安の混ぜ物に魅了された時点で、私はMEHEDAHAの作り出す不思議な世界から抜けられなくなり、共演者となってしまったのかもしれない。

 

 偶然なのか、故意なのか。人形が力を持っているのか、演者が力を持っているのか。そのことは、本作の舞台の作り方やマリオネットの動かし方を見ても気になる。本作の舞台は、奥の演者たちをのぞける穴があるなど(演者たちがのぞく穴かもしれない)、客席から微妙に舞台の裏側が見える作りになっている。また、演者たちは、自分たちがマリオネットを操っていることを「隠さない」。これまで私が見た人形劇は、演者は黒子として頭巾をかぶっており、人形劇の世界に没入するため、操りの糸や手は見えにくいように隠されることがスタンダードだった。ただ、『REUNION』では、演者たちは舞台全体の色から浮いている素手を見せて人形を操り、コントローラーの上部にペンライトをつけてむしろ糸や操る機構そのものを目立たせていた。そもそも登場する、東洋風のスカートをはいたマリオネットたちや、画家夫妻のマリオネットたち、いわゆる「人間」のように見える人形たちも、小刻みに震えたり、ぐんにゃり腕が曲がったり、「人間」ではなく糸操りでないとできない動きが時々混じっている。観ている私は、常に人形が演者によって「操られている」ことを意識させられる。とはいえ、『REUNION』の人形たちは、落下や自動走行など、演者が「操ることができない」動きも多々行う。むしろ演者たちこそ、人形の動きに合わせて棒を動かしている(そして合わせることによく失敗する)ように見える。でもその人形はそもそも演者たちによって置かれたもので……誰が操っていて誰が操られているのか…複雑な入れ子構造の中でわけが分からなくなっていく。だがそれが面白い。

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優雅なオブジェクトたちの宴会―下北沢国際人形劇『KAR』感想

次の感想は、チェコの劇団とスロヴェニアの楽団(DAMUZA+Fekete Seretlek)が上演する『KAR』です。

公式HPから紹介を引用します。

トルストイアンナ・カレーニナ』をモチーフにしたオブジェクトシアター。葬儀の晩餐会へ訪れた弔問客(=観客)にはウォッカが振る舞われる。グラスの音がメロディーに変わり、ティーカップはロシア宮廷舞踊を踊りはじめ、気がつけば観客はアンナ・ カレーニナの物語の登場人物になっている。アコーディオン、パーカッション、バイオリン、チェロ、コントラバスと歌声にのせて、机上のオブジェクトの予想もつかない動き・振る舞いが、故人の人生を次第に明かしていく。

 

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観てとても面白かったんだけれど、観たものが何だったのか言語化するのが大変難しく、当日夜頭を抱えながら感想を書いた記憶がよみがえります。でも音楽の迫力すごかったし、めっちゃ楽しかった。

(こちらの感想はデイリージャーナルに書いたものそのままとなります)

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優雅なオブジェクトたちの宴会―『KAR』感想(DAY5)

東風ゆば

 

 

 何が起こってるのかよくわからない、けどめっちゃ面白い、これが『KAR』を観た時の偽りない感想だ。まず、私は劇場に入り、空いている席を探しながら舞台の方向に目を向ける。そしたらそこには、白いフリルが飾ってあるテーブルの上に、お腹にアコーディオンをのせた男性が横たわっている。その近くでは、正装した男性が観客の姿を見て何かを羽ペンでメモしている。ローラースケートをはいて舞台を駆け回る男性もいる。後ろにはチェロもある。そこには美しく、ちぐはぐで、リズミカルな謎の空間が出現している。

 

 劇が少し進むと、横たわっている男性が死にかけている、ということが分かってくる。なるほど、テーブルは棺で、男性のお腹にあるアコーディオンの蛇腹の動きと音の響きは弱っていく呼吸の表現なのか、などと私は解釈してみる。しかし、序盤数分で何とか理解したその状況すらも、死ぬのが「今日」か「明日」か、「30年後」か、という言葉と、男性がテーブルから起き上がる勢いの強さで打ち消される。30年後だったら、今葬式しなくていいじゃん!と、つっこみたくなる。

 

 本作は『アンナ・カレーニナ』の世界を表現しているとのことだが、大変残念なことに私は原作のあらすじを断片的にしか知らず、劇のストーリーをはっきり追うことはできなかった。ストーリーの代わりに、この劇の魅力は数々の断片として私の記憶に残った。英語の台詞の間にいきなり挟み込まれる日本語「ですか」。トランペット、チェロ、アコーディオン、人間の声、あるいは様々な形のグラスたちによる陽気で楽し気な、迫力ある素敵な音楽。人間たちの陽気な宴会の横でグラスたちがテーブルを生き生きと踊りまわり、グラス同士で噂話をする。優雅な貴族たちと浴びるように飲まれるウォッカ。羽ペンと紙とバチでかたちづくられ、すぐに消えていく鳥。躍動する生とすぐそばに横たわる死(とはいえ、この劇の最後には演者たちがDie!Die!Die!と叫びまくっていて死すらも何か浮かれた、活動的なものに見える)。

 そこにとどまるものはなく、すべてのシーンが一瞬でさかさまにひっくりかえる可能性を秘めている。私はこの劇のすべてを意味あるものとして受けとることはできなかったが、意味からあふれつつこの優雅で静かで陽気で騒々しくて陰気でハチャメチャな一瞬の宴会を楽しんだ。

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感想に書きそびれたこと。

当日観た後にバックステージツアーがあって、ここに書いてあるモノたちを間近で見せていただけたのですが、

様々なグラスたちも本も、静かに動くはずのない「モノ」としてそこにあって、

ついさっきまで舞台上で踊り狂っていたとは思えそうもない感じなのがびっくりしました。

人形劇への誘いがつまった公演たち―下北沢国際人形劇祭『パペットスラム』感想

今年の2月下旬、「下北沢国際人形劇祭」のデイリージャーナルに、ライターとして参加させていただきました。

普段日本で観ることができない海外の人形劇がたくさん観れてとても楽しかったです。

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デイリージャーナルは以下のURLから読むこともできます。

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(私が書いた記事はDAY4,5,7にあります。)

しかし、ジャーナルに投稿するにあたって感想を少し縮めた部分があるので、こちらで当日書いた感想の全文を公開したいと思います。

「人形劇、楽しい!」の思いのまま観た当日深夜にハイテンションにつづったものなので、ちょっと恥ずかしいですが、せっかく書いたので。

 

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人形劇への誘いがつまった公演たち
―『インターナショナル・パペットスラム』感想(DAY4)

東風ゆば

 

 さあ、一緒に人形劇やろうぜ!インターナショナル・パペットスラムに登場する人形たちと人間たちは観客の私たちをそう誘う。それは、会場のさじきに座った直後、「PS」と書かれた犬小屋が登場したときからずっとそうだ。赤い屋根の犬小屋からは元気な犬がでてきて、「わんわん!」と鳴く。「わんわん!」と私たちは彼/女を見つめて叫ぶ。パペットスラムの司会を努めるこの犬は目が飛び出ていて、小さな足も、ワンテンポ遅れて何かに気づいて私たちに「何が起こったの?」といわんばかりに見つめてくるところも、とてもかわいらしい。パペットスラムの司会はこの犬と、「SIPF」と書かれた犬小屋から出てくる、茶色い頭と茶色いふわふわの大きな手足、赤く大きな舌を持った謎の生物(ほんとに謎だった)の二匹(二匹+二小屋)のかけあいで進んでいく。この幕間を見ているだけでもワクワクしてくる。

 

パペットスラムの素敵な司会者たち

 

 パペットスラム最初の演目は、ペトル・ボロフスキーの『ハエ』である。まず印象的なのは、老人の人形が演者の手と手にはさまれた布から形作られていることだ。演者のこぶしで作られた顔は、指の間にはさまれた目と、親指で形作られた顎がせわしなく動き、ハエを追ってくるくると動く。老人は、ハエを叩いたお玉でかき混ぜた鍋を観客たちにふるまう(ちょっと食べたくない)。老人がかき混ぜた鍋の中にあったのは、二つの目玉とそれをつなぐひも。そう、鍋をふるまわれた私たち観客も、自らの手と配られた目玉ひもを使って老人の人形を形作り、すぐ人形劇することができるのだ。

 

 次の演目は、角谷将視(ゼロコ)の『まるめた紙』。劇の最初、演者はデスクに座って、鉛筆で何かを書いたり、イライラして紙を丸めてゴミ箱にぶん投げたりしている。これだけだと人間劇にみえる。ただ、そのあとがすごい。私は、くしゃくしゃの紙が、たばこの煙になったり、人の形をとるけど身体の上に頭をのせるのに失敗したり、星になったり、とにかく無限の可能性を秘めていることをまざまざと実感する。そしてこう思う。くしゃくしゃの紙を捨てるんじゃなくて、人形にして遊びたい!と。

 

 ここまでこぶしの老人と紙の人が生き生きと動くことにワクワクしていた私は、大谷敏子/sikakuicoの『スパーキー・クラウド・ジュニア達』で、冷や水を浴びた気持ちになる。この演目では、かわいらしい五体のネコ人形が登場するが、演者は無表情に、5体を「さほど大事には思ってないモノ」のように雑に扱う。テーブルから無造作に落ち、白い布で首や体をくくられる人形たちを見て、私はひたすらこわくなり、「もうやめて!」と叫びたくなる。驚いたのは、このように私がおびえている間に笑っている観客たちがいたことだ。そう、あくまでこれは「私」から見えたこの演目の姿なのだ。他の観客たちにはこの演目がどう見えていたのか、感想を教えてほしい気持ちになる。

 

 パペットスラムの休憩時間、『ハエ』の老人からもらった目玉ひもを使って、さっそく友達が即興人形劇を始める。それに連鎖して近場では、老人がまとう布を貸してくれる人、うまい演じ方を教えてくれる人、とりあえずやり方わからないけど目玉ひもを借りて老人を試してみる人(私)が現れる。初めて会った人や久しぶりに会った人と人形で交流ができるのが楽しい。

 

 休憩の後は、プエルトリコから来たデボラ・ハントの『私有』。工事現場にありそうな、くすんだ灰色の袋の上に灰色の顔がある印象的な人形たちは、現代社会の重さをまとっているようだ。『私有』と書かれた水道の蛇口が、だんだん他者を寄せ付けないように高くなり、柵で囲われていき、その策に人形がくし刺しにされる様(なるほど、袋だからくし刺しにできるのよね)は恐ろしい。でもあの印象的な袋の人形は動かしてみたい。

 

 はとの『悪魔と女』は、大きなトリを被り、黒いドレスを着た演者のドレス上で人形劇が展開される。幼稚園の頃、先生のエプロンの上で展開される人形劇をワクワクしながら眺めていたことを思い出したが、黒いドレスの上で、男女のトラブルを見ていると、エプロン人形劇とは違うダークな味わいがある。トリのシルクハットの中から月がでて、そこから悪魔がでてくる演出はワクワクした。金髪の美しい女性人形の首をハサミでチョキチョキして、その首を移植した女が男に振り向いてもらうシーンはドキドキした。

 

  役者でないの『body』は、演者の上半身がしゃべるしゃべる。両手が口論し、左肩は右肩に愚痴を言い、足はくつしたを脱いで自己の貢献を主張し、最終的に言葉にならないうごめきと叫びで身体が主張する。そして私は気づく。『ハエ』で示唆されていたように、『body』で衝撃的な形で示されたように、身体こそが最大の人形だったのだと。

 

 仲谷萌の『干し草』は、ごく普通の小さな一軒家が登場する。ただし、この一軒家の食卓に置いてあるのは、料理ではなくて、干し草だ。この干し草をテーブルのはしとはしから二匹の動物がむしゃむしゃ食べている。どうやら二匹の動物は初めて会うらしく、ちょっとお互い遠慮しつつ、でもお互いのことを気にしつつ、静かに草をはんでいる演技は圧巻だ。ふつうのようであってふつうでない状況が成立しているのが面白い。

 

 パペットスラム最後の演目は、チェコから来たヤクブ・イェリーネクの『NEXT LEVEL』。銀色のモノたちによる弱肉強食の世界と、その中で弱者であったモノが生き残るまでのストーリーがループして描かれる。銀色のモノたちはペン立てのようであり、ランプのようであり、食器のようであり、ネジのようであり、どれでもないようだ。だが、それが「何」かは関係ない。演者が動かすと、それは捕食者から逃げつつ知恵を絞る被食者の群れであり、それはニヤニヤしながら被食者を狙う捕食者である。モノはモノのままで生きものとなる様に驚いた。

 

 さあ、人形劇やろうぜ。こぶしで、紙で、身体全体で、エプロンで、銀色のモノで。人の形をしているかどうかは関係ない。そして、同時に人形が人形でいられない時はいつか、それを体感しよう。(最後に一つ気になるのは、それでは、これは人形劇と呼ぶべきなのだろうか、何か新しい呼称を使うべきなのだろうか)このような魅力的なメッセージを、私はパペットスラムから受け取った。それを伝えたい。

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自己紹介

みなさんはじめまして、東風ゆばです。

 

私は、劇を観ること、本を読むこと、展覧会を観ること、などが趣味です。

これまでは観たものや読んだものを「素敵だなあ」「ここもっと気になる!」とぼんやり思うだけであまり文章にしてこなかったのですが、書いて整理する場が欲しいと思って、

『東風日記』をはじめました。

色んなジャンルの日記を書いていきたいと思っているので、興味のあるものを読んでいただけたら嬉しいです。

 

それでは、これからよろしくお願いします!