人形劇への誘いがつまった公演たち―下北沢国際人形劇祭『パペットスラム』感想

今年の2月下旬、「下北沢国際人形劇祭」のデイリージャーナルに、ライターとして参加させていただきました。

普段日本で観ることができない海外の人形劇がたくさん観れてとても楽しかったです。

www.sipf.jp

デイリージャーナルは以下のURLから読むこともできます。

www.sipf.jp

(私が書いた記事はDAY4,5,7にあります。)

しかし、ジャーナルに投稿するにあたって感想を少し縮めた部分があるので、こちらで当日書いた感想の全文を公開したいと思います。

「人形劇、楽しい!」の思いのまま観た当日深夜にハイテンションにつづったものなので、ちょっと恥ずかしいですが、せっかく書いたので。

 

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人形劇への誘いがつまった公演たち
―『インターナショナル・パペットスラム』感想(DAY4)

東風ゆば

 

 さあ、一緒に人形劇やろうぜ!インターナショナル・パペットスラムに登場する人形たちと人間たちは観客の私たちをそう誘う。それは、会場のさじきに座った直後、「PS」と書かれた犬小屋が登場したときからずっとそうだ。赤い屋根の犬小屋からは元気な犬がでてきて、「わんわん!」と鳴く。「わんわん!」と私たちは彼/女を見つめて叫ぶ。パペットスラムの司会を努めるこの犬は目が飛び出ていて、小さな足も、ワンテンポ遅れて何かに気づいて私たちに「何が起こったの?」といわんばかりに見つめてくるところも、とてもかわいらしい。パペットスラムの司会はこの犬と、「SIPF」と書かれた犬小屋から出てくる、茶色い頭と茶色いふわふわの大きな手足、赤く大きな舌を持った謎の生物(ほんとに謎だった)の二匹(二匹+二小屋)のかけあいで進んでいく。この幕間を見ているだけでもワクワクしてくる。

 

パペットスラムの素敵な司会者たち

 

 パペットスラム最初の演目は、ペトル・ボロフスキーの『ハエ』である。まず印象的なのは、老人の人形が演者の手と手にはさまれた布から形作られていることだ。演者のこぶしで作られた顔は、指の間にはさまれた目と、親指で形作られた顎がせわしなく動き、ハエを追ってくるくると動く。老人は、ハエを叩いたお玉でかき混ぜた鍋を観客たちにふるまう(ちょっと食べたくない)。老人がかき混ぜた鍋の中にあったのは、二つの目玉とそれをつなぐひも。そう、鍋をふるまわれた私たち観客も、自らの手と配られた目玉ひもを使って老人の人形を形作り、すぐ人形劇することができるのだ。

 

 次の演目は、角谷将視(ゼロコ)の『まるめた紙』。劇の最初、演者はデスクに座って、鉛筆で何かを書いたり、イライラして紙を丸めてゴミ箱にぶん投げたりしている。これだけだと人間劇にみえる。ただ、そのあとがすごい。私は、くしゃくしゃの紙が、たばこの煙になったり、人の形をとるけど身体の上に頭をのせるのに失敗したり、星になったり、とにかく無限の可能性を秘めていることをまざまざと実感する。そしてこう思う。くしゃくしゃの紙を捨てるんじゃなくて、人形にして遊びたい!と。

 

 ここまでこぶしの老人と紙の人が生き生きと動くことにワクワクしていた私は、大谷敏子/sikakuicoの『スパーキー・クラウド・ジュニア達』で、冷や水を浴びた気持ちになる。この演目では、かわいらしい五体のネコ人形が登場するが、演者は無表情に、5体を「さほど大事には思ってないモノ」のように雑に扱う。テーブルから無造作に落ち、白い布で首や体をくくられる人形たちを見て、私はひたすらこわくなり、「もうやめて!」と叫びたくなる。驚いたのは、このように私がおびえている間に笑っている観客たちがいたことだ。そう、あくまでこれは「私」から見えたこの演目の姿なのだ。他の観客たちにはこの演目がどう見えていたのか、感想を教えてほしい気持ちになる。

 

 パペットスラムの休憩時間、『ハエ』の老人からもらった目玉ひもを使って、さっそく友達が即興人形劇を始める。それに連鎖して近場では、老人がまとう布を貸してくれる人、うまい演じ方を教えてくれる人、とりあえずやり方わからないけど目玉ひもを借りて老人を試してみる人(私)が現れる。初めて会った人や久しぶりに会った人と人形で交流ができるのが楽しい。

 

 休憩の後は、プエルトリコから来たデボラ・ハントの『私有』。工事現場にありそうな、くすんだ灰色の袋の上に灰色の顔がある印象的な人形たちは、現代社会の重さをまとっているようだ。『私有』と書かれた水道の蛇口が、だんだん他者を寄せ付けないように高くなり、柵で囲われていき、その策に人形がくし刺しにされる様(なるほど、袋だからくし刺しにできるのよね)は恐ろしい。でもあの印象的な袋の人形は動かしてみたい。

 

 はとの『悪魔と女』は、大きなトリを被り、黒いドレスを着た演者のドレス上で人形劇が展開される。幼稚園の頃、先生のエプロンの上で展開される人形劇をワクワクしながら眺めていたことを思い出したが、黒いドレスの上で、男女のトラブルを見ていると、エプロン人形劇とは違うダークな味わいがある。トリのシルクハットの中から月がでて、そこから悪魔がでてくる演出はワクワクした。金髪の美しい女性人形の首をハサミでチョキチョキして、その首を移植した女が男に振り向いてもらうシーンはドキドキした。

 

  役者でないの『body』は、演者の上半身がしゃべるしゃべる。両手が口論し、左肩は右肩に愚痴を言い、足はくつしたを脱いで自己の貢献を主張し、最終的に言葉にならないうごめきと叫びで身体が主張する。そして私は気づく。『ハエ』で示唆されていたように、『body』で衝撃的な形で示されたように、身体こそが最大の人形だったのだと。

 

 仲谷萌の『干し草』は、ごく普通の小さな一軒家が登場する。ただし、この一軒家の食卓に置いてあるのは、料理ではなくて、干し草だ。この干し草をテーブルのはしとはしから二匹の動物がむしゃむしゃ食べている。どうやら二匹の動物は初めて会うらしく、ちょっとお互い遠慮しつつ、でもお互いのことを気にしつつ、静かに草をはんでいる演技は圧巻だ。ふつうのようであってふつうでない状況が成立しているのが面白い。

 

 パペットスラム最後の演目は、チェコから来たヤクブ・イェリーネクの『NEXT LEVEL』。銀色のモノたちによる弱肉強食の世界と、その中で弱者であったモノが生き残るまでのストーリーがループして描かれる。銀色のモノたちはペン立てのようであり、ランプのようであり、食器のようであり、ネジのようであり、どれでもないようだ。だが、それが「何」かは関係ない。演者が動かすと、それは捕食者から逃げつつ知恵を絞る被食者の群れであり、それはニヤニヤしながら被食者を狙う捕食者である。モノはモノのままで生きものとなる様に驚いた。

 

 さあ、人形劇やろうぜ。こぶしで、紙で、身体全体で、エプロンで、銀色のモノで。人の形をしているかどうかは関係ない。そして、同時に人形が人形でいられない時はいつか、それを体感しよう。(最後に一つ気になるのは、それでは、これは人形劇と呼ぶべきなのだろうか、何か新しい呼称を使うべきなのだろうか)このような魅力的なメッセージを、私はパペットスラムから受け取った。それを伝えたい。

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